第二部 一編 一般的観点


首を埋めるカモ

本書の第一部では、仏陀について述べましたが、第二部では仏教の教理について述べます。

苦悩についての真理と道

仏教の最高の真理、苦悩についての真理を真に認識するには、道による他はありません。論理的思考や哲学的思弁では到達することができません。

よって、苦悩についての命題を理論的に考察するだけでは仏陀の教理を深く理解することはできず、道を叙述しなければその理解に到達出来ません。

仏陀が説いた道とは、すなわち瞑想の道です。

仏教の瞑想については、インドでヨーガと呼ばれる宗教的修行と関連性があります。ここでいうヨーガとは、一定の方法に従って実修する精神統一と瞑想のことです。実践的ヨーガのことであって、理論的ヨーガ派のことではありません。

但し、ヨーガ派と仏教は非常に共通する点も多く、仏教を知る上でヨーガ派を知ることで非常に得るものがあります。ここで著者は、ヨーガ派との比較において仏教を解説しています。

八正道の命題

八正道の命題は、仏陀が他の箇所で述べた言葉といっしょに並べないと、十分に理解されません。

その意味内容は一般的で、順応性のあるものです。

まずは何が正しいかということは保留しておき、信仰として受け入れさせ、次に思考、言葉、行為において生活で表現させます。そしていつも念頭におく(正念)ようにして、最後にそれを心霊の中に取り入れ、内面的な沈思瞑想させます。これが八正道です。

八正道のうち、第一から第七までが、第八の沈思瞑想(三昧)への準備段階にすぎないことを理解することは大切です。

仏陀は入滅にさきだち、弟子たちにたいする説法の中で、その根本教理の意義を繰り返し述べています。それは、正しい行為(戒)瞑想(定)と認識(慧)についてであって、その上に解脱が生じます。

これら四つの分類は重要で、さまざまな仏教聖典に繰り返し説かれています。この倫理、瞑想、智、解脱という四大部門の中に仏教の法全体が要約されているといっても差し支えありません。

本書の第二部もこの四大部門に従って、章がわけられています。

第二部冒頭における私の理解

現在一般的に言われている身体運動的ヨーガではなく、実践的瞑想のヨーガが仏教とさまざまに共通点を持つことを理解しました。

また、今まで八正道とは、仏教の単なる倫理的戒めかと思っていました。確かにそういった意味合いもありますが、しかし、「第一から第七までが、第八の沈思瞑想(三昧)への準備段階」という著者の言葉が、私にとってかなり重要な意味を持ちました。

八正道を今までと少し違った角度で見ることができるようになりました。それは、見方が少しずれただけですが、大きな認識の相違を私の中に生じさせてくれました。


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