第一部 二編 歴史上の仏陀 第一章 生涯


お寺の門
史実と思われる歴史上の仏陀についてです。

歴史上の仏陀

仏陀の伝説的物語の中にも、歴史上の事実が含まれています。実際に物語に語られていた仏陀の遺骨を収めた塔も発見されています。

仏陀の誕生年代は、およそ西暦前6世紀の中頃となります。出身はシャーキャ族であり、それゆえシャーキャムニ「シャーキャ族出身の聖者」(釈迦牟尼、釈尊)と呼ばれます。

生まれ故郷の都の名前は、カピラヴァストゥです。ルンミンデーイ村の近くで、仏陀生誕地を示す碑文が発見されています。

父の名前は、シュッドーダナ(浄飯王)で、本当の王というよりも封建的国家の首席のような地位であったようです。または、「貴族地主」であったなど、見解は分かれています。

母の名前は、マーヤーであり、その名前には実際の名前ではなく、他の意味が含まれている可能性もあります。

伝説上、幼年期からアシタ仙人の予言、ジャンブ樹の瞑想などの逸話があるのは、実際に仏陀が幼年期から瞑想的素質が発芽していたものと考えられます。

仏陀が結婚していたことはおそらく事実です。妃の名前は、ゴーパー、ヤショーヴァティー、ヤショーダラー、バッダカッチャーナー、ラーフラの母、などがあります。息子の名前はラーフラであり、歴史上の人物として、聖典に教団の一員として名前が記されています。

仏陀が遁世する前に、俗世の幸福を味わい、何不自由なく生活していたというのは、おそらく事実です。四度の外出で、老、病、死にはじめて出会い、心優しい太子がそれを見て感情を動かしたのも事実でしょう。

仏陀は出家後、二人のヨーガの師につき、修行しました。次に仏陀は苦行の後、苦行の無益を悟り、苦行することを止めました。そして、ナイランジャナー河のほとり、ウルピルヴァーの無花果樹の下で悟りを開き、ボサツから仏陀となりました。

その後、仏陀はその真理を世に伝えることを逡巡しますが、ついに教えを広める決心をします。この間、伝説的なブラフマン神の説得などは仏陀の内面的葛藤と考えられます。

重要なことは、その後の弟子たちへの説法が、本当に仏陀の口から語られたものかどうかということです。実際は、十分な確信を持ってこれら問題を肯定することも否定することはできません。

この問題について著者は次のように述べています。

「残された聖典には、様々な源泉からきたいろいろなものが合流しているには違いないが、しかしこの多様性の中にもひとつの核心が目立っているのであって、この核心が一人の、一定の統一がある、すぐれた人物の面影を伝えていることは明らかである」

そして、「仏教に生命を吹きこんだすぐれた人物といえば、まさに仏陀その人であったと考える他はない」と述べています。

また、物語によくでてくる超感覚的な存在は、必ずしも後から付け加えられた象徴的伝説とはかぎらず、実際、その場での仏陀の内的、神秘的、瞑想的な体験であると考えられます。

物語にでてくる地名についても、実際の地理に正確に合致するものが多く、事実に基づいていると思われます。仏陀は、気に入った場所はいくつもありましたが、その使命の為に一箇所に長く留まることはありませんでした。

そして、八十歳の高齢で、(西暦前477年もしくは480年)生誕地の近くで、入滅しました。

章の最後に著者は次のように述べています。

「仏陀の生涯における個々の歴史的事実は、みな不確実ではあるにしても、仏陀の人格ぜんたいとしての姿は、このとおり明瞭で確実であって、こんなに遠い過去における歴史上の人物の特徴をあらわす姿が、この仏陀の姿ほどに明瞭に生々と描き出される例は少ない」

この章を読んでの私の理解

仏陀の伝説上の物語からも現実にあった事実を取り出せることがわかりました。

そして、今伝えられる物語の全体としては、懐疑的部分があるとしても、仏教そのものとしては仏陀の生命が吹きこまれている、仏教とはすなわち仏陀というすぐれた人物が残した教えだということが理解できました。

著者自身も、仏教を学術的に研究し著述しているとはいえ、多分に仏陀を、仏教を、愛してるに違いないと強く感じました。


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