第二章 感受と共に呼吸する 第五、第六の考察について


花

「アーナパーナサティ・スートラ」の最初の四考察は、坐を獲得する、心を安定させる、身体と親しくなるというプロセスを含んでいました。次には、身体の考察から感受の考察に移行します。

第五、第六の考察

5.「喜悦を感じながら息を吸おう。喜悦を感じながら息を吐こう」と訓練する。
6.「楽を感じながら息を吸おう。楽を感じながら息を吐こう」と訓練する。

喜悦は強烈なこともありますが、軽い場合もあります。喜悦が前面に出てくるこの時点では、喜悦が考察の対象となります。

喜悦が修行の大きな励みになりますが、また「より以上の喜悦を求める欲が起こる」など問題の種にもなります。喜悦から生じる静寂(スカ)すなわち楽についても同じことが言えます。

スカは、涅槃のようにも感じられますが、そうではありません。他の全てのものがそうであるようにやがて去って行くひとつの状態です。もし、そこに執着するならば、消え去った時に苦しむことになります。「他の欲望に対するのと同じように、喜悦や楽についても”私”とか”私のもの”として執着してはならない」ということです。

喜悦や楽について、経験し浸ってみることはよいですが、執着してはなりません。

日々の生活において

これら修行の要点は、修行を日々の生活に応用できるようにすること、すなわち一瞬一瞬が修行であるということです。

悟りとは「ご飯を食べ、お茶を飲む」ことです。自分について抱く思いをすべて手放していくことです。

修行においては、普段の生活がとても大切となります。

感受について

感受すなわちヴィーダナーは仏教の教義・修行体系の中で非常に重要なものです。

仏教において感受と感情はイコールではありません。感情は後から出てくるもので、この相違を理解することは大切です。なお、仏教においては、心についても感覚器官のひとつとみなします。

感受が世界を展開させていく連結点です。もし、この切れやすい連結点を捕まえて、巧みに見つめることができたならば、不必要な苦しみから自分自身を開放することができます。

現時点での私の理解

喜悦と楽について、現在の私の瞑想においても感じることができるようになってきました。そして、そこにさらに上を求める心や執着が生まれることも理解できました。

悟りとは「ご飯を食べ、お茶を飲む」こと、についてなんとなく理解できましたがうまく短く言い表すこともできませんし、体得したとは言えない状況です。
ただ、普段の生活において、瞑想の成果を生かしていきたいと思いました。

感受と感情が違うものである、感受とは感情などの世界につながる入り口であることを理解しました。

また、その時点で、感受を見つめることがとても大切であると認識しました。


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