ラリー・ローゼンバーグの「呼吸による癒し」もいよいよ最後の章となりました。
沈黙の価値を知る
人間の心には、ごくわずかな勇気ある人だけが探索した広大な領域があります。
瞑想者は、この広大な領域の探検者です。
言語や知識は、確かに重要なものではありますが、それらの大部分が生きていく上での助けになるとは限らないものです。
私たちは、心のもっと深いところに降りていく必要があります。
「沈黙」は存在のひとつの次元です。私たちが今親しくしている言葉、文化、思想などの存在する次元とは別のところにあるもの。
沈黙は私たちを待っていますが、こちらからつかみ取ることはできません。それは私たちが創り出すものではありません。私たちがそれに入っていく道を見つけるのです。
それに近づいていくときは優しく、謙虚で、そして純真無垢な態度でなければなりません。
沈黙は誰にでも体験することが可能なものですが、それと取り組んでいくためには、ある程度の信念を持つことが極めて重要です。
瞑想を続けているとやがて沈黙の垣間見える瞬間が訪れます。このような出会いによって、修行を続けていこうという信念が生まれてきます。
雑音と友だちになること、つまり本当に雑音をよく知るようになることが、沈黙への道です。
最大の雑音製造者はエゴです。
選択なしの自覚の修行が、深い沈黙を体験するためのさらにすぐれた方法となります。
沈黙へのもうひとつのアプローチは、十三番目の考察を中心としたヴィパッサナーの修行から生まれてくるというものです。
すべてに無常を見て、手放した後に沈黙があります。手放すことによってさらに無常を明確に理解し、深く沈黙の中に入っていきます。
沈黙に出会うと恐れを感じることもありますが、恐れを感じているのはエゴです。エゴは沈黙の中では存在できないからです。
恐れも、共にあり見つめていればやがて消滅します。
沈黙に出会ったら、ただ沈黙に委ねるのです。全く何もしないことです。
沈黙は、坐っているときだけのものではありません。
日常生活の行為の中にも沈黙は存在します。行為における沈黙とは、行為者のいない沈黙です。
ただ皿を洗う、掃除機をかける、エゴのない行為、「私」だとか「私のもの」といったことからはなれた行為です。
最終的に私たちがどんな考えも持たなくなったとき、私たちは物事をありのままに見るようになります。
沈黙についての私の理解
ここでいう沈黙とは、涅槃のことだと推察しています。
ヴィパッサーナー瞑想のさきにあるもの、解脱、そういったところの涅槃、ニルヴァーナ、沈黙。
そういったところから、まだ遠いところにいる私ですが、瞑想をしていると時々垣間見える静寂、沈黙に心を励まし、信念を得て、さらに瞑想を深めていきたいと考えます。
「草は緑で空は青」