第二部 第二編 道の諸段階 第五章 第四段階-解脱


解脱

仏教における「道」の目標を「解脱」といいます。

解脱について

解脱は無意識状態の虚無ではなく、最高度の意識性の状態です。そして、解脱した者は自分が解脱したことを承知しています。それは苦悩のくりかえし(輪廻)からの解脱です。

仏教の修行者が絶えず努力して達成する目標は解脱であり、それは感性的な欲求の滅却(愛尽)にほかなりません。その滅却は、「欲求を完全に離れて迷妄を滅却すること」(無明愛絶滅)によって達せられます。

そして、この滅却は「正しい行為」(正行)によって倫理的に清らかになり、瞑想により神通と高度の認識(智慧)を得、場合によっては何度も生まれ変わってからはじめて達成されることもあります。

この「解脱」の経過は(逆観の縁起説)のとおりであり、その中でももっとも重要なことは、構成力(行)を滅し、生存を根本から処理することにあります。

解脱の本質的な目印、名称として仏典でしばしば成句でまとめられています。「それは、平安なるもの」(寂静)、きわめて尊いもの(勝妙)、あらゆる行の鎮静ないし滅却(一切行寂滅)、あらゆる基体ないし個性の基本となる五蘊の解消(捨離一切有余)、感性的欲求の滅却(愛尽)、欲情の否定(無欲)、原因の滅却(滅尽)、消失(涅槃)。

修行者の目標であるところの涅槃とは虚無ではなく、修行者が現世において体験することのできる実際の状態です。

涅槃は、世界存在ないし肉体的実存の根本を断ち切ろうとするものですが、それが「虚無である」とか、「現世での阿羅漢の境地であり、阿羅漢が入滅したのちには虚無である」という理解は正しいとはいえません。

この涅槃という「境地」(処)は、感性的なものに身をゆだね、感性的なものを楽しんでいる人間には理解しがたいことです。

これらは、哲学的理論によって解決するものではなく、瞑想によって解明し、瞑想の中で体験すべきことなのです。

到達した境地において基体が消滅すれば同時に実在性もなくなるはずであるのに、到達した境地においてそれら基体がなお存在するかどうかによってその境地が実在するかどうかを決めようとする考えは、仏教の見地からはまったくばかげたことです。基体が存在するかどうかは、涅槃の実在性には何のかかわりもありません。

また、仏教では生存への倦怠からおこる「虚無へのあこがれ」に「無有愛」という名称を与え、これを卑しいものとして、解脱の目標に至るものではないと否定しています。

仏教の修行者がもっているのは、「虚無へのあこがれ」ではなく「常住なるものへのあこがれ」なのです。仏教が克服しようとしている本来の苦悩は無常にほかなりません。

それゆえに仏教でいう涅槃つまり解脱とは、無常なるものの領域から脱出すること、「存在」の(感性的ないし超感性的な)あらゆる領域から脱出することです。

仏教では涅槃に入るときに到達する世界を涅槃界とも滅尽界とも呼びます。また、「不死の界」(甘露界)とも呼ばれます。

この涅槃の領域は、あらゆる個人的なものとはかかわりがなく、それを超越し、それとは無関係です。

解脱は仏教の真の悟りの境地であり、仏典によれば二重の面をもっています。すなわち、「理知の解脱」(慧解脱)と「心情の解脱」(心解脱)です。

このうち前者は、理知による解脱であると同時に、理知を越えてさらにいっそう高度の意識状態に到達することと理解されます。

一方心情の解脱とは、官能的な存在に束縛するところのあらゆる煩悩から心情を解放することです。

この心情の解脱からうまれる慈愛は、放射するだけであらゆる生きももの上に恵みを降り注ぎます。

心情の解脱からは、慈愛(慈)の他に同情、哀れみ(悲)、共に喜ぶこと(喜)、沈着冷静(捨)も生じ、それらは「無量心」と呼ばれます。

そして、これら四無量心のうちでも慈愛が最大のものであるという感じを持っていたと思われます。修行者は、崇高な遍満的な高貴な世界的慈愛へと昇ると同時に、無量の領域である「涅槃」に到達するのです。

*仏陀ないし菩薩が現世に生まれるのは、個性としての業の必然性に拘束されるのではなく、自発的な慈愛の行為です。

第四段階-解脱についての私の理解

解脱とは虚無ではないことを理解しました。解脱、涅槃とは無常からの脱出、常住の世界に達することであると解釈します。

自分が実在しないのに、涅槃の境地が実在するかということを西洋的思惟により解明することは不可能であること、それは瞑想によってのみ解明することが可能であり、瞑想によって体験するものであると認識しました。

さて、長きに渡って、ベックの「仏教」上下巻を勉強してきましたが、今回で最後となりました。

この「仏教」を勉強することは、他カテゴリーにて扱っている瞑想においても、大変役立ちました。ベックも著書で再三述べておりましたように、仏教の本質は瞑想により悟るべきものであることを肝に命じ、私も瞑想修行に励みたいと思います。

また、このすぐれた仏教の教科書で得られた知識を基盤にし、さらに他の仏教関連書も勉強していきたいと思います。自分が読んでみて、得るものがあればまた記事にて紹介させていただきます。


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