第四章 智慧と共に呼吸する 第十三の考察


無常

この最も重要であるとも言える考察は、ある意味で残りの三考察も内包しています。

第十三の考察

13.「無常であることに意識を集中させながら息を吸おう。無常であることに意識を集中させながら息を吐こう」と訓練する。

無常は目新しいことではありません。多くの詩人や哲学者などが人類が出現してこの方、無常を歌い上げています。

無常の法則が本当にわかると、変わり続けるものに執着するのは賢明ではないとやっと理解します。

これを智慧と呼ぶとき、それはただ明晰かつ徹底的に見ることを言います。智慧は言葉ではありません。見ることが智慧なのです。私たが学んでいるのは、何が起こっても目を開いていることなのです。

この十三番目の考察はヴィパッサナー瞑想の中核になっています。この考察を折り返し地点としてそれ以前の十二考察のすべてを遡ってみるのも、修行法のひとつです。

一日を過ごす中での諸感覚についても、修行することができます。無常を理解することにより、良い感覚を追いかけ回したり、悪い感覚を避けたりしなくなるのです。

無常の教えの中には、「無我」という概念が組み込まれています。ブッダは、自己には永続的な中核はないと言っています。

自己は持続的な実態を持っていません。それは、幻影です。自己こそが私たちの苦しみの核心にあるのです。

第十三番目の考察では、無常と親しくなることが要求されています。

意識に耳を傾けると、思考はやむことなくやって来ては去っていきます。それらは一貫したものではなく、統御することも予測することもできません。ただ空に浮かぶ雲のように、現れては消えていきます。このプロセスを見ることを「空」を見ることといいます。

無常と苦しみ、自己が空であること、これらが仏教の三法印、玉璽です。

自分の感受や思考を否定する必要はありませんが、そこから自己を作り上げないように注意してください。

心を空にする

心が澄み渡って空っぽになっているとき、心が見るもの、そしてそこから生まれる行動は、より信頼のおけるものになっています。

貪欲、嫌悪、迷妄といった煩悩について見つめるとします。抑圧するのでもなく、溺れてしまうのでもなく、ありのままに見るのです。

スピリチュアルな修行を始めた人によくあることですが、それらを抑圧することがしばしばあります。それではうまくいきません。

「いかなる状況であれ、何物をも私とか私のものとして執着してはならない」 これが、ブッダの本質的な教えです。

私たちは、実際には「空」です。私たちには自分が誰であるか、誰であったか、誰になるであろうかについての概念が絶えず流れつづけ、そうした心理状態を自己としてとらえています。

他人に関しても同様の概念を抱いています。イメージが他のイメージと出会い続けています。そして、自分のイメージが襲撃されると、私たちは苦しむのです。

この道を進むことが、お金を儲け、名声を高め、身体的に魅力的になること否定するものではありません。しかし、それらを自己として仕立てあげてしまうと、苦しみが待っていることになります。

この修業のメッセージは解放です。これは個人に関わるものに思えるでしょうか、やがて明晰さと健康さを育むならば、すべての人々を助ける道へと続くでしょう。

空とともに修行する

私たちは、注意深く見つめますが、観察者ではありません、ただ見つめ注意するだけです。そこには注意があるだけです。私という観察者がいるときは、苦しみがつきまといます。

スピリチュアルな修行者というイメージに執着してはいけません。修行の中に苦しみを作り出してはいけません。

すべてのものが無常であり、すべてのものが互いに関わり合い、何も実体的なものはなく、私たちはすべてお互いに条件づけあっているのです。

十三番目の考察についての私の理解

あらゆる状態から自己を作り出し、それを自分であるとして保とうとしても、自己と呼ばれるものは変化し続けます。もともと幻影である、変化しつづける自己に執着するのは苦しみであると理解しました。

「物事に溺れてはならないが、抑圧することもよくない」、その抑圧するという部分についても、道を歩み始めたものにとって陥りがちなことで、注意すべきでことであるとわかりました。


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