八正道は沈思瞑想(三昧)を道の最高段階とするもので、それ以外は瞑想の為の予備段階にすぎません。
仏教における瞑想
仏教において瞑想が高次な意識への鍵ですが、正しい内面的な準備もなく、正しい道も知らずに瞑想を求めることを仏陀は戒めています。
瞑想における姿勢ですが、仏教では形式を重んずることはありませんが、仏陀自身は、結跏坐法をとっていたようです。
また、仏陀は呼吸に注意を払い、他の人にもそのようにすすめました。
インドでは、呼吸と瞑想の間に関連があると考えられていました。すなわち、潜在意識の中に意識的精神活動のための構成力(行)があるのと同様に、呼吸の中に肉体的活動の形成のための構成力が存在しているということです。
瞑想においては、予備段階として呼吸を制御し、感管の門を閉じます。すなわち修行者は、瞑想以前に、欲望、他のものを傷つけたいという願望、憎しみ、怠惰とねむり、虚栄と軽蔑、正しい道についての疑念、といった五つの束縛から完全に離脱しなければなりません。
仏教においては、瞑想の諸段階を前の段階を滅却しながら次々とのぼり、涅槃に達することを目的とします。
またそれら段階においては様々な神々が登場しますが、それらは教理上の創作とか、通俗信仰との妥協ではなく、純粋に霊的に体験されるもののことです。
これらは、他の宗教における多神教とは異なります。仏教者にとってそれらは、祈りの対象ではなく、修行者は瞑想によりそれらのもとへのぼっていくのです。
他の宗教にとって祈りが宗教生活の核心であるのに対し、仏教においては瞑想が宗教生活の核心です。
仏教において、瞑想は、自分自身の完成のみに役立つというものではなく、全世界、あらゆる生類に対する祝福に役立つ為の努力です。
出家者は、まず霊的生活に入り、道の予備的諸段階を克服し、霊的静慮に到達します。次に瞑想の中で一段ずつのぼるうちに、内面的発展が行われ、その発展には諸領域のあらゆる神々が関与します。
仏教においては、自己を否定するわけではありませんが、ある段階で自己として体験されるものは、次の段階では本当の自己ではないとして放棄します。
仏陀は、瞑想の諸段階にあらわれる神変を、単に好奇心を満足せるために世俗の人々に見せることを決して承知しませんでした。
神変として、四神足の教えがあります。神足とは、意欲(欲)、精力(勤)、精神的要素(心)、形成的創造(観)の四つです。四神足は、高度の精神力の達成に至る道であるといわれています。
これら能力は天耳、他人の思考と心情の認識(他心智)、以前の生涯を想起すること、そして天眼です。これら高度の能力は、次のテーマ、英知につながることとなります。
仏教の瞑想における私の理解
瞑想について、ベックの見解は、さまざまな経典を行来し、転々と飛躍するので、わかりにくい部分もありましたが、本サイトの他のカテゴリーで扱っている瞑想の知識と相まって、以前読んだ時よりも理解することが出来ました。
仏教において、神々の登場については、多少なりとも違和感を覚える部分もあったのですが、ベックの見解により、それらの固定観念がある程度払拭できたと感じます。新たな見解と気持ちで、神々を語る経典の直訳などを読みなおしてみたいと思います。