第一章 身体と共に呼吸する「アーナパーナサティ・スートラ」の冒頭部分について


森の小径

冒頭、仏陀は極めて巧みな教師で、説明する相手によって様々な方法論を用いたが、その基本にあるものは「四つの真理」があるだけである。

すなわち、苦しみがある、苦しみの原因がある、その苦しみには終わりがある、苦しみを終わりに導く方便がある、という四つの真理のことであると説いています。

次に、「アーナパーナサティ・スートラ」の冒頭部分「瞑想修行者は、森に行き、木陰に行き、あるいは空き家に行って足を組んで坐り、身体を真っ直ぐにして、気づきを前面に向けて確立する。常に気をつけて、瞑想修行者は息を吸い、気をつけて瞑想修行者は息を吐く」の部分に関しての説明です。

瞑想の基本姿勢について

環境は、静かで気を散らすものがない場所であること。

座り方は、結跏趺坐が理想的ではあるが、こだわらないこと、特に初心者のうちに無理に結跏趺坐をしようとする必要はないし、それにこだわれば逆に修行の妨げになると説いています。安定した真っ直ぐな姿勢で静けさと威厳を保って坐っている、ことが重要。

目を閉じるか否かについて 目を閉じる、半眼にする、といった方法があるが、囚われることなく自分にあった方法で行うこと。

姿勢 真っ直ぐに心地よく、リラックスしてバランスがとれるようにする。頑なに姿勢を保とうと力を入れない。

「気づき」について

安定した姿勢を確立した後は、気づきを高めていくことが大切と説いています。

気づきは鏡に喩えられます。そこにあるものをただ映し出す。あるがままに見つめる。事象について考えるのではなく、ただ見つめる。

親密さが一つのキーになります。親密さとは、物事をありのままに見ること。悟りとは宇宙全体との親密さを経験することとといています。

「常に気をつけて瞑想者は息を吸い、気をつけて息を吐く」

息の大切さについて説き、息をあるがままにただ見つめる最初の修行について説きます。

呼吸を見つめる時、身体のどこで見つめるべきか。 腹部という意見、鼻腔、胸という意見もあるが、仏陀自身は特定していないし、どこでも構わない。個人にとってもっとも注意を保ち続けられるところ、但し一貫性は持たせたほうが良いと説いています。

物事や修行についてこう述べています。「複雑にするな、現在の瞬間にしっかりとつかまっていろ」

歩行による瞑想

実際には、坐る、立つ、歩く、横になる という四つの姿勢の全てに気づきを養うことが大切と説いています。

歩行瞑想について、息に注意を向けながら歩行する方法について説いています。

呼吸に注意を向けることの大切さについての理解

さて、ここに第一章の前半を読んで、呼吸を見つめる修行について理解し、納得したと思っている自分と、どこかに呼吸を見つめることに本当に意味があるのだろうかと心配している自分が少しいます。

また、ここ数日事前に坐ることを続けていたので、その短い時間、心と身体の安定というか安らぎのようなものを感じた自分がいます。

今後についてですが、実践を通じて「この修業に意味があるのだろうか」という考察も含めて本書による瞑想修行を続けていきたいと思います。

なお、環境や基本姿勢について、私の状況は以下のとおりです。

静かな場所は私の寝室、なるべく綺麗にシンプルに保ちたいと思います。
結跏趺坐については、私は問題なく出来ます。リラックスするに従ってより重心が安定するのを感じます。
目については、開いたままで斜め下を見るようにしています。結果的に半眼っぽくなります。
呼吸を見つめる時、身体のどこに注意を向けているかについては、鳩尾のあたり。


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